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松平容保の最期とご宸翰

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八重の桜ではいよいよドラマそのもののクライマックスが近づいています。

その中で、会津藩主であった松平容保が最期の時を迎えようとしています。

松平容保が最期を迎えるのは明治26年12月5日、亡くなった場所は東京小石川、59歳の生涯でした。

松平容保が最期を迎えた後、松平容保自身が常に身に着けていた竹筒からご宸翰(ごしんかん)と御製(ぎょせい)が入っていましたが、ご宸翰とは何でしょうか、御製とは何でしょうか。

松平容保は明治維新の会津戦争を戦い、敗軍の将となりました。

その後、蟄居を命じられるものの、その後許されて日光東照宮の宮司などを務めます。

そして、宮司を辞した後の明治26年に肺炎のため死去します。

死去の後にわかったのが、首から下げていた小さな竹筒の存在。

その竹筒の中にしまわれていたのが、ご宸翰と御製です。

ご宸翰というのは天皇自筆の文書のこと、御製とは天皇や皇族が自ら作った文章や詩歌のことです。

松平容保が大切にしていたご宸翰と御製は孝明天皇のもの。

幕末の動乱期に八月十八日の政変というのがありました。

八月十八日の政変は、当時、過激な思想で孝明天皇から嫌われていた長州藩を、薩摩藩と松平容保が率いる会津藩が追放した戦いですが、このときの奮闘ぶりをたたえたのが孝明天皇のご宸翰です。

孝明天皇と松平容保は主と臣下の関係にありましたが、それだけではなく厚い信頼関係で結ばれていたと伝えられています。

歴史には大きな転換点があります。

孝明天皇と松平容保は信頼関係で結ばれていましたが、孝明天皇が急死したことにより、松平容保は長州藩とかつては同盟関係にあった薩摩藩などの謀略により、忠臣から逆賊に立場を暗転させます。

その後は、前述のとおりですが、松平容保は孝明天皇から賜ったご宸翰と御製の存在を生涯隠し続けていました。

なぜでしょうか。

松平容保自身が最期まで隠していただけに、隠した理由は明確ではありません。

ただいろいろな説はあります。

たとえば、

孝明天皇から授かったのは個人的な信頼関係によるものなので、これを衆目にさらすことは畏れ多いと考えた。

ご宸翰と御製の存在を明かすと、ご宸翰と御製が自分のもとから離れてしまう可能性があり、しかも旧薩摩藩や旧長州藩などの人間に悪用される可能性があった。

松平容保は藩主として会津藩士やその家族、領民に大きな迷惑をかけてしまったので再び、世の中にでることを望まなかった。

いろいろな説がありますが、松平容保の心中はどのようなものだったのでしょうか。

松平容保という人を知るうえで、どう考えていたのかは、とても興味深いところです。

松平容保は明治26年に最期を迎えます。

死後、孝明天皇からのご宸翰と御製が発見されましたが、その存在を明らかにしたのは旧会津藩の家臣である山川浩です。

ただし、世間に明らかになったのは明治35年ころ。

松平容保が亡くなってから約10年が経過しています。

まだ、その当時でもすぐには公表できない何かがあったのでしょうか。

このこともできることなら知りたいものです。


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