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真田昌幸は表裏比興の者!草刈正雄の演技が楽しみ!

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大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田信繁。その真田信繁の父が真田昌幸で、真田昌幸を演じるのが草刈正雄です。

草刈正雄がどのように演技をして真田昌幸を作り上げていくのか楽しみです。

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さて、真田昌幸は1547年に生まれ、1611年に亡くなります。真田昌幸の最期は追放をされた紀州の九度山での病死ですが、その人生は波乱に満ちたもの。

豊臣秀吉は真田昌幸を「表裏比興の者」と評しています。比興とは現在の漢字では卑怯と表現します。

では、真田昌幸は卑怯だったのでしょうか。とても興味をそそられるところです。

真田昌幸は真田家の祖である真田幸隆の三男として生まれています。三男なので真田家の後継者になることは期待されておらず、武藤家に養子に入っていました。

ところが、真田昌幸の兄2人が相次いで亡くなってしまったため、真田昌幸は真田家の当主となり、ここから真田昌幸が世の中に存在感を示していくことになります。

とはいっても真田氏は地方の一豪族にすぎず、常に周辺の大きな勢力に気を使わなければいけませんでした。

真田昌幸が仕えたのは武田信玄。武田信玄亡きあとは武田勝頼に仕え、武田家の中でもある程度の地位を保っていました。

武田家が無事であったなら真田昌幸もそれほどの知名度は上がらなかったかもしれません。

しかし武田家は1582年3月に滅亡。そして真田昌幸はここで思いもよらない行動を見せ始めることになります。

前述のとおり真田氏は単独で生き残るほどの力はありません。したがって武田家が滅亡したら主家を変える必要があります。

真田昌幸がまず頼ったのが織田信長。具体的には織田信長の重臣の一人である滝川一益に帰属をします。

しかし、直後に起こったのが同年6月の本能寺の変。主君の織田信長が横死したことで滝川一益も撤退を余儀なくされます。

真田昌幸が次の帰属先に選んだのが越後の上杉景勝。

本能寺の変の直後には上杉景勝に臣従していますが、翌7月には関東の北条氏直に帰属。

これで落ち着くと思ったら同年9月には突如東海の徳川家康に帰属をしています。

その後、北条氏と徳川氏は和睦をしますが、その和睦の条件の中に真田氏にとって不利になる条件が盛り込まれていたことに真田昌幸は激怒。

北条氏でも徳川氏でもなく、その後は上杉氏を頼ることになります。

真田昌幸は短い期間に幾たびとなく主家を変えています。

その後は、豊臣秀吉の天下統一により、真田昌幸は豊臣氏に臣従することになり、さらには1600年の関ヶ原の戦いでも西軍の豊臣方に味方。

関ヶ原の戦いに敗れて九度山に追放。その地で激動の人生の幕をひいています。

真田昌幸を「表裏比興の者」と評したのは豊臣秀吉。おそらく真田昌幸が豊臣家に帰属した後に、豊臣秀吉から発せられた言葉だと思われます。

比興とは現在の漢字では卑怯に通じるとされています。仮にこのとおりだとしたら、表裏比興の者はまさに侮蔑の言葉です。

しかし、ここで使う比興はどうも現在の卑怯とは趣が異なるようです。

真田昌幸はほんの短い期間に主家を何度も変えた。真田家生き残りのためには当然のことだとしても、ここまで思い切り主家を変えた人物はそうはいない。

度胸があり比べるものさえいない大した人物だ。「比興」にはこのような意味があるようです。

したがって、表裏比興の者は侮蔑ではなくかえって称賛の言葉だと考えられています。

さて、大河ドラマ「真田丸」で真田昌幸を演じるのが草刈正雄です。

草刈正雄はかつての大河ドラマ「真田太平記」で真田信繁(真田幸村)を演じています。約30年の時の経過を経て、今度は真田信繁の父である真田昌幸を演じることになります。

これまで真田昌幸の「表裏比興の者」を軸にこの記事を書き進めてきました。

真田昌幸はもちろんのこと卑怯者ではありません。しかし、真田家を守るために、瞬間を大切にし、その都度神経を研ぎ澄まし判断を繰り返してきた武将です。

真田昌幸が真田丸でどのように描かれるのかはわかりません。しかし、一筋縄ではいかない人物であることだけは間違いのないところ。

草刈正雄がそんな真田昌幸の心の機微をどのように演じていくのか。真田丸で真田昌幸役の草刈正雄がどのような演技をみせてくれるのか、とても楽しみです。


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