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塚本高史が演じる後藤又兵衛は黒田長政のライバルとなる

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軍師官兵衛では子供のころから登場しているのが後藤又兵衛です。

軍師官兵衛では、後藤又兵衛の幼少期を川口和宥(かわぐちかずな)、少年期を松島海斗(まつしまかいと)が演じていますが、青年期以降になり後藤又兵衛を演じるのが塚本高史(つかもとたかし)です。

後藤又兵衛は軍師官兵衛の中でも重要な役割を担っていくものと思われますが、果たしてどこまでその生涯が描かれるのでしょうか。

というのも、軍師官兵衛の主人公である黒田官兵衛が生まれたのは1546年、死亡したのは1604年。

これに対して、後藤又兵衛が生まれたのは1560年、死亡したのは1615年と2人の間には生没年にずれがあるためです。

後藤又兵衛は一生涯を通して数奇な運命をたどったことで知られていますが、特に後半生は激動の人生を歩んでいます。

後藤又兵衛は、むしろ黒田官兵衛の死後に激動の人生を送っているため、黒田官兵衛が亡くなれば、そのあたりはあまり描かれない可能性もあります。

ところで、後藤又兵衛の来歴ははっきりとしていない部分もあるようですが、後藤又兵衛の幼少期に父が亡くなり、そのため子供のころから黒田官兵衛に養育されていたというのが通説になっているようです。

黒田官兵衛は後藤又兵衛を実の子供のように育てますが、荒木村重の謀叛により荒木方についた後藤家の方針に従い、子供の後藤又兵衛も黒田家を一時離れることになります。

しかし、豊臣秀吉の九州征伐を機に後藤又兵衛は黒田家に帰参。

その後の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いでも武功を挙げています。

このため、後藤又兵衛は江戸時代に作成された「黒田二十四騎」あるいは「黒田八虎」の一人にも数えられ、さらには関ヶ原の合戦後には黒田家の家来として16000石を拝領しますが、後藤又兵衛の隆盛もここまで。

黒田官兵衛が1604年に亡くなると、次第にその後を継いだ黒田長政と不和になり、1606年には隣国の細川家に出奔をします。

昔から隣国とは争いが絶えないといわれますが、当時の黒田家と細川家は隣国同士で犬猿の仲。

幕府の仲裁もあり黒田家と細川家は直接に戦を起こすことはなかったものの、後藤又兵衛は細川家に残ることはできませんでした。

もっとも当時は全国的に武勇が知られていた後藤又兵衛。

いくつかの大名が後藤又兵衛を臣下に加えようとしていましたが、そこに「奉公構」という策を用いてきたのが黒田長政。

「奉公構」とは、簡単に言えば後藤又兵衛を雇うなということで、もし雇うとなれば黒田長政との争いを覚悟しなさいというような意味です。

結果的にこの「奉公構」が効いて、後藤又兵衛は浪人生活を余儀なくされます。

そして、後藤又兵衛の名前が世の中に登場したのが1614年。

1614年の大坂冬の陣に豊臣家の招きを受けて大阪城に入城。

豊臣家は1615年の大阪夏の陣で滅亡をしますが、あわせて後藤又兵衛も夏の陣で討死をします。

黒田官兵衛は嫡男の黒田長政だけでなく、父を亡くしてさまよっていた後藤又兵衛も実の子同然に育てたとされています。

これはとても大事なところで、子供だった後藤又兵衛が嫡男の黒田長政と同格だと勘違いをしても仕方のないところです。

表面上はともかく、実際は同格で後藤又兵衛にとって黒田長政は同格でライバルであった、そう思っても戦国の世にあっては仕方のないところです。

しかし黒田長政にしてみれば後藤又兵衛はあくまでも家臣。

後藤又兵衛はライバルなどではなく、優秀と言えども家来の一人にすぎません。

こうした考え方のずれが2人の対立を生みだしたのではないでしょうか。

もっとも軍師官兵衛の主人公は黒田官兵衛で、黒田官兵衛が亡くなるのは1604年。

そして、黒田長政と後藤又兵衛が決定的に対立をするのは黒田官兵衛の死後になるので、このあたりは軍師官兵衛では描かれないかもしれないですね。

ただ、後藤又兵衛が極めて優秀な戦国武将であったことは間違いのないところで、その勇将、猛将ぶりを塚本高史がどのように演じてくれるのか。

後藤又兵衛演じる塚本高史が、黒田官兵衛、そして黒田長政にどのような姿勢で接していくのかが楽しみですし、見どころも多くなっていくのではないでしょうか。

軍師官兵衛、そろそろ後半に差し掛かってきますが、また新たな楽しみがでてきそう、そんな気配があります。


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